Unknown@Presence

色々あれこれ。

今週のお題「2018年上半期」

しばらく書いていませんねどうしましたかメールをもらってしまった。

遅ればせながら、「チョコミント」書きます。

そういえばいつもチョコミントだった。

駅前のアイスクリーム屋で友人がアルバイトしていて、公務員だった私は電車を一つ乗り越して友人の顔を見に行っていた。友人は浪人中、私は受験に失敗して滑り止めの地方自治体にブツブツ文句言いながら通っていた。

いつもチョコミントやな。友人は言う。うん。好きやもん。水色のミントの中にチョコレート。けったいな組み合わせやな。うん。美味しいで。

ミントの水色がチョコの色と混じっていく。ミントの清涼感は嘘くさくて、甘過ぎるチョコはそれでも苦くて。

宙ぶらりんな十代の終わりにふさわしい気がした。

それから10年後私は学士になり、友人も先月大学を卒業したはずだ。

あの駅は古いけれど風格があって格好良かったのにどこにでもある駅舎になり、駅前は相変わらず景気が悪い。私は公務員は五年で辞めて、間にフリーターやら何やら挟みつつ、ハケンになってもう10年過ぎた。

あの駅のある町は相変わらず退屈で、実家に帰ってもちっとも落ち着かない。友人は地元のいい感じに優良な会社の社員になった。

もうチョコミントでもないかな。

アイスクリームの自動販売機の前を通り過ぎながら思う。今働いている会社は割と気に入っている。体の奥からふつふつ湧いてくる苛立ちを治めるために舌を冷やさなければならないほどには、機嫌は悪くない。それに、歩きながらアイスクリーム食べられるほどにはもう若くないし。

でも、忘れたくはない。田舎町でくすぶっていた頃、何を話すでもなく訪れた店先でアイスクリームを掬ってくれた友人の笑顔と。その他にも、もう顔も名前も忘れてしまったけれどわがままで勝手な私と友達でいてくれた、意外に大勢な人たちと。

 

そういえばというか。

その友人と週末に会う約束してたんだけど、電車走るのかな。

今週のお題「修学旅行の思い出」

小学校は伊勢。三重県ですな。母の実家が三重県にあるので、祖母が見送りに来てくれました。母の実家は商家でお米屋なんだけどその頃はお花も扱っていたのです。だから立派な花束もらいました。

まだフラワーアレンジメントなんて洒落たものがなかった時代で、レース柄の透明なセロハンに守られて、大きな紅色のガーベラや可愛いマーガレットがこっち向いてました。

でも私は写真があんまり好きじゃなかったので花束を持った写真はあんまり残ってません。代わりにというか、担任の先生がまるで自分のもののようにして写真撮ってました。学校の先生ってやっぱり大人気ないなあって思いました。

その頃は体が弱かったのでたった一泊の旅行でも疲れ切ってしまって、駅まで迎えに来てくれた母が漕ぐ自転車の荷台で眠ってしまいそうになったのだけよく覚えています。

中学は九州。長崎です。こちらも父の実家があったところです。だいぶ前に神戸に出て来ているのでお見送りはありませんでしたが。

普通の観光旅行です。新幹線です。九州に行くのは初めてで、博多ってどんなとこだろってみんなでワクワクしていたら普通の都会で、みんな一斉にちょっとがっかりしてました。

小学校の頃より少し丈夫になりましたがバスには酔うので、酔わないようにバスの中で大騒ぎしてました。お土産に買ったドライフルーツのパイナップルが美味しくて、気が付いたら全部食べていました。

高校はスキー。長野です。夜行電車で行くのです。スケートはしたことありましたがスキーは初めてでした。体育の授業の延長でした。

大きなお寺の境内を散歩していたら大きくて美味しそうな林檎が売られていたので試食したら薔薇の香りがしてすんごく美味しかったので一個買いました。バスの中で歌を歌いながら丸かじりしました。

修学旅行じゃないけど高校の友達や後輩と一緒の旅行もしました。淡路島です。橋が架かる前なので船で行きました。海水浴の予定が台風が来て散々でした。しかも泳げないので昼間から酒盛りして、私だけ二日酔いでした。すみません。

夏は家族で海水浴したり親戚とキャンプしたり、子供の頃の夏は旅行ばっかりしてました。だから修学旅行はちょっと窮屈でした。

でも多分、みんな口にはしないけどあれが最後の旅行になった友達が何人かいて、その時はもちろんそんなことは想像もしていなくて、修学旅行というとそれを思い出して、ほんのちょっとだけ、悲しくなります。

今週のお題ゴールデンウィーク2018」

ひと月ほど前から、バイオリンを弾き始めている。習い始めたのではなく、ずっと弾いていなかったのを久しぶりに取り出して弾いてみようということだ。

なんせ久しぶりなのでA線が切れとった。A線はピアノでいえば真ん中のラの音。一番の基本の弦が切れたのだった。

で、職場の近所で発見した楽器店で弦を入手。なんせ10年以上弦は買ってなかったので、古い弦の袋を持参して探す。意外にも値段はほとんど上がっていない。千円弱。ってことは昔は高かったんだなあ。

いそいそと買って来た弦を張ってまずは音合わせ。チューニングだわ。でもうまくいかない。Aが低い気がする。なんでよー。張りすぎて駒が倒れてしまった。これは弦が違うのじゃないか? 隣のDなんじゃないのか? あくまでも疑い深い私。

弦を取り外して楽器店に持っていく。これってAで間違いないですか。新しいのと比べてもらう。当然のことながらそれはA。Aだけ新しいから強いんじゃないですか。なるほどそうか。

で、今に至る。なるほど、一ヶ月ほどでAは落ち着いてきた。

そしたら今度はもっと正確にチューニングしたくなった。そうだ、今は昔よりいいチューナーがあるはずだ。弦の値段が変わらないんだからチューナーはもっと小さく手軽になっているはず。

その通り。ネットで色々見つけた。チューニングの方法の動画まである。お、この人私と同じ教本を使っているわ。いいよねあの本。

先生の名前は久保木隆文さん。説明が丁寧。分かりやすいよ。先生が使ってるあのチューナーいいと思ってたんだ。また買いに行こうっと。

あっ、メモ用の鉛筆落っことした。ははっ。でも動じない、続ける。なんか、いい人だなあ。

私は人に教えてもらうのが好きじゃないけど、こういう動画は参考になるなあ。中学の部活でしか弾いてないから、細かい技術とかは教わってないしさ。

ただ一つだけ、久保木先生。せっかくいいサイトなのに、変なリンクが付いてます。消したほうがいいと思います。

わたしの転機。

はてなダイアリーでハケンの畦道っていう日記を書いている。ブログにはあんまり仕事のことは書いてないけど、今回のお題、いぬじんさんの投稿とか読んでいて思わずウルウル来てしまったりしたのでお礼というか、書きます。

わたしの転機。

いつだろう。

実はわたし、一回も会社員になったことがありません。最初に働いたのは地方自治体なので、入社じゃなくて入所なのだよ。。

地方公務員は大学の滑り止め。大学に受かってたら行ってない。だから転機というより方向修正というか、挫折なのか、もしかしたら。

そのわりには夜遊びしまくっていたと。でも2年も遊ぶと飽きた。公務員でいるうちに、と実家を出てアパートを借りたのが二十歳になるちょっと前。

家を出たのも転機じゃないなあ。物心ついた頃から家は出たかったし。大人になったら家を出るのが当たり前だと思ってた。親は何だかんだ言ってしょっちゅうアパートに来てたけど、あんまりしつこくしてもっと遠くに行ってしまっても困ると思ったみたいなのと、飽きたんだねきっと。来なくなった。

それから3年はしょうがないから働いたけど、異動になって仕事がさらにつまらなくなって、しかも職場も遠くなって辞めました。

それからはバイトしながら小説書いてた。ワープロだった。サンヨーの。小さいテレビみたいなやつで、十万円くらいしたっけ。NECのPCも持ってたけど、印刷するの大変だったのよ。

そうこうするうち昭和も終わってしまって。ほしたら平成元年に賞金一千万円の時代小説のコンクールがあって、最終選考に残った。そこで落ちたけど、出版社の人が時々会いに来るようになった。面白い人だったのでよく話した。

でも、これも転機じゃないな。結局デビューしてないし。今は小説にはあんまり興味ないし。

ほんで高校卒業10周年を記念して大学生になりました。通信制なので無試験です。久々に健康診断した。

でも、大学も転機じゃないな。楽しかったけどさ。大卒になったし。

関西ではその頃大きな地震があって、わたしは傷ひとつなくてアパートも少し壁にひびが入ったくらい。みんな大変なのに自分は何ともなかったっていう罪悪感はしばらくあったし、今でも思い出すと苦しいけど、それでもそれも転機じゃない。

それを転機っていうのはおこがましいです。

で。卒業してから10年近くまともに働いてないの。ほとんどバイトもしてなかったな。1週間くらい家から出なかったこともある。その間のことは履歴にも書けません。何してたんだろうの三十代です。

とか言っているうちに働かないと食べていけない状況になっているというのに気がついた。おせーよ。なので近所の工場でラインの仕事を始めました。最初はグズグス言っていたのにすぐに慣れて上手になりました。なのでこれも転機じゃないのよね。

ラインの仕事も楽しかったけど、なんかずっと立ってるのもなーって思ってたらマンションのポストにチラシが入ってて、ついに事務系のハケン生活が始まるわけだけど。

これも、転機とは言えないのよ。

転機っていうのはさ。自分で何かを変えようって思って行動した時、それが上手くいってもいかなくても、いい経験として生かせるなあ、っていうやつのことでしょ。

わたし、自分からは何もしてないのよ。何の努力もしていない。

公務員試験の勉強は全くしてないし、長編小説だって全然苦労しなかった。大学も楽しかったし、ラインのバイトだって面白かったのよ。そりゃまあ多少工夫したりはしたけど、石にかじりついてとか歯を食いしばってとか、全然してない。

実家を出てアポートで暮らし始めた頃のこと、文化住宅の前を通ると今でも思い出すよ。楽しかった。友達が遊びに来ては夜中まで飲んだ。アンテナを自分で立てたり、網戸作ったり、冷蔵庫買いに行ったり、細々した日常のことが本当に楽しかった。今でも楽しいけど、二十代の頃とは違うなあ。

決して綺麗だとは言えないアパートも、若いから楽しめた。お風呂のドアが外れても笑えた。冷蔵庫は小さくてアイスクリームが溶けたけど、スーパーの帰り道に食べちゃえばよかった。

いつかはきっとマンションを買うんだろう。そんなに広くないけど使い勝手のいい部屋。緑の多い静かな街で暮らすんだろう。

だから若いうちは、駅に近くて便利でちょっとごちゃごちゃした街、古いけど日当たりの良いアパート暮らしも悪くない。

って、何の根拠もないし後ろ盾もないのに思ってたよ。

そして今はその通り、公園だらけの街の、日当たり抜群のマンションに住んで真新しい高層ビルにある外資系薬品会社で派遣してる。

強く望んだり憧れたりすることはないし、きっとこれからもないだろうなあ。楽しいんだけど、楽したいとは思ってない。だからといって苦労もしたくないし、というより、しない。

うん、そうだなあ、わたしは「したい」と思わないんだ。したいと思う前にもうしてる。動いている。考えないんだ。迷わないしな。

ちょっと馬鹿だな。そうかも知れない。もうちょっと慎重に計画的に動けば、今頃もっとすごい豪邸とかに住んでばりばり仕事してるかも・・・ないな。

そうそう、慎重といえばさ。大学に行く時の健康診断から10年ぶりに派遣の健康診断で身長測ったら2センチ伸びていたよ。BMI値稼げたよ、って。

ごめんね、オチなしで。

お母さん。

 

電車の中で本を読む人、意外に多いのね。電子書籍のこともある。

電子書籍の文字は大きいので、遠くからでも見える。覗き見するつもりはないけどちらっと見えちゃった。「母が目に涙をいっぱいためて」睨みつけてくるんだって。認知症の話みたいだな。

ドアのところに並んで立っている、背格好も年齢もよく似た二人。文庫本にカバーをかけて読んでいる。「母と同じような」服装をしている女性がいたので思わず振り返ってしまった。「母のことばかりかまけて」いるわけにはいかないけどどうしようもない。

三人連続で母について読んでいる人を見かけてしまったわけで。小説でまで母に会いたいのか、それとも世間の母のことを知りたいのか。

日本の一般的な母親観っていうのはもう分かりやすくて、働き者で丈夫で朗らかでちょっとおっちょこちょいで。バリバリのキャリアウーマンなんてことはない。

ていうか、このキャリアウーマンてのも古いよなあ。ちなみに、水色のランドセルの女の子が大事そうに抱えていたのは「竜巻のふしぎ」。よかった。畦道も「火山のふしぎ」とか「恐竜のふしぎ」とか好きだったよ。

畦道にも母親はいて、似ているところがないわけじゃないけど全部じゃない。家事系のことは大体好きで、でも多分私の方が手が早い。母は専業主婦で、たっぷり時間があるからだろう。私は煮物は電子レンジで下ごしらえするし里芋は皮ごと蒸したりするけど、母は里芋が冷凍に限ると言う。調理器具も私は最低限しか持たないけど母は台所の棚が溢れて父の本棚を占拠してもまだ足りないくらい食器を溜め込んでいる。

それでもまあ、そんなにやりにくい母親ではないと思う。畦道は自分でアパートを探して家出同然に家を出てそのまま戻ってない。両親は最初のうちはアパートにやってきて帰れ帰れ言ってたけど一年くらいで諦めた。今では分譲マンションに住んでいる。そんな行動力や自活力を持てたのは母がちゃんと育ててくれたからだ。

それでも、母みたいになりたいわけじゃない。ならなくていいと思う。

母親だから分かっている、娘だから当然だ、それは違う。人は変わるし、誰かのことを全て理解できるわけじゃない。

母親も人間だ。気分の良くないこともある。特に子供に愛情を注いできた人は子供が一人前になると自分が役に立たないような気がしてとても落ち込むのだという。

自分の母親として理解しようと努力するより、そのまま一人の女性として見ればいい。自分より数十歳年上の、子供の頃からよく知っている女性。顔は自分と似ているけれど、違う人格の女性。そう考えると、見えてくることがある。

先生なんて幻想。

今週のお題「わたしの春うた」

春になるとどうしても思い出してしまう歌。「贈る言葉」。

金八先生の最初のシリーズ放送時、私は高校一年生だった。教師たちは生徒と交流を持ちたがっていて、真剣にあのドラマを見ていたらしい。高校一年の三月、クラスみんなで歌わなきゃいけなかったよ。別になんも嘆いてないのに。

あれは恐怖だったなあ。先生たちが寄ってたかって自分の自己満足のために子供産ませるんだもん。あのドラマ出身の俳優たちがどうなったか、別にここで私が並べ立てなくてもみんな知ってるよね。国会議員になっちゃったのまでいたね。

現場の先生たちは迷っていたんだと思う。どうやったら生徒を指導できるのか。冷めた顔をして黙々と勉強する新人類の高校生たちを、どうやって導いていったらいいのか。

でもね。学校の先生の導きなんていらないのよ。導きっていうのは、道を知らない人もためにあるものなのよ。指導っていうのはどっち向いたらいいかわかんない人たちのためにあるものなのよ。親がちゃんと面倒を見ていなくて、毎晩ふらふら歩き回ってるような子供達のために指導とか補導とかいうのがあるのよ。

80年代の始まり。バブルの始まり。私たちには道があったね。大学に行けばそこそこ就職できた。女子もわりと会社員になっていた気がする。ハケンとか非正規とかいう概念はあんまりなかった。大学を出ていればそこそこ就職できた。そして男子は就職さえできればなんとかなったし、女子もそれなりに就職したり結婚したり。子供産んでから職場復帰したりしてる。

誰も自分探しなんてしてなかった気がするし、空気も読んでなかったし。いい歳こいて女子会なんて言ってなかった気もする。覚えてないけど。男子は大学から家を出るのが多かった。女子はあんまり一人暮らしはしてなかったけど、その代わり自宅通勤の時代はここぞとばかりにお金使い荒い。でも結婚したらお金の管理はきっちりする。

まだ携帯もなかったしSNSもなかった。けど、夜の街をふらふらして補導されたり犯罪に走ったりする若者は一定数いた。家出する子もいたな。直接は知らないけど。

どんな時代にもふらふら出歩く子はいる。そんな子達を本当に心配する人と、食い物にしようと近よる人がいる。それを全てひっくるめて、太り過ぎの金魚みたいな女の子たちは、「大人は分かってない」と称する。誰も自分の事は分かってくれない、友達なんていらない。自分は他の子たちとは違うんだ、と束の間優越感に浸る。

分かっている。彼女たちは分かっている。自分たちが人目を引けるのはほんの束の間。十代の前半から後半まで、せいぜい18歳まで。売り物になるのはそのくらい。その間だけちょっと冒険してみる。知らない人、初めて会う人に親切にしてもらう。出会いはいつも新鮮でドキドキ。親も知らない秘密の探検。危険なこともあるけど、優しい人もいる。でも私は次に進むんだ。胸を張って前に進んでいく。

だって私は売れるんだもの。他の子たちとは違うんだもの。同じクラスの男の子なんて子供っぽくてお金も持ってなくて退屈なんだもの。

彼女たちはどうなるんだろう。売れなくなったら、歳をとったら、どうなるんだろう。

彼女たちにこそ贈りたい。優しさは臆病者の言い訳。涙枯れるまで泣く方がいい。

彼女たちはどこに行くんだろう。春になったら、18歳を過ぎたら。どこかに寝るところはあるんだろうか。

 

 

私の一人暮らし、って、一人暮らしはしたことありません。

というわけで。友人の下宿に転がり込んだことはありましたよ。

そこは学生用の離れで、小さいながらも庭があって、なかなか良い雰囲気でしたよ。さすがは京都でした。

みんな良い子ばっかりだったなあ。当時は大学受験に失敗して滑り止めの公務員で小遣いはいっぱいあるんだけど神戸で腐っていた私には、女子大生はキラッキラして見えましたなあ。

豚肉とほうれん草に醤油と日本酒をぶち込んだ鍋で酔っ払ったり。ロールキャベツ作ろうとして失敗したり。

でも畦道は腐ってばかりではないのです。東京の女子大生になりましたよ。通信制なのでウィークリーマンションで一ヶ月だけ一人暮らし。その頃は働いていないのに何故か食べていけたので勉強時間はたっぷりありました。

一年目は上野。夏なので花火見ました。次の年からは世田谷。二年目からは友達と一緒のマンションにして、夜ご飯食べたり一緒に勉強したりしました。地方のスクーリングも楽しかった。博多はご飯が美味しかったなあー。名古屋は人が面白かった。香川もよかった。橋渡った。東京は電車の便が良い。

結局「一人勉強」程度で厳密な意味で一人暮らしはしていないけど、短い楽しいひと時でした。