Unknown@Presence

色々あれこれ。

選択という選択。

30歳の冬。12月30日。前の日から飲み続けて3時過ぎに友人のマンションに転がり込み、マドンナのビデオを見ながら化粧も落とさずに爆睡した。

毎年どんどんひどくなる。そんな友人のため息混じりのセリフをぼんやり聴きながら年は開けて、さすがに酔いも覚めた正月。通信制大学の試験を終えて、ワインバーで記念の赤ワイン。シメのコーヒーが来るのがなんだか妙に遅くて、コーヒー豆ブラジルまで買いに行ったのかね、などと笑っていたのが1月16日日曜日の夜。

だからといって人生観が変わったわけではない。親しい人を失わずにすんだからかも知れない。私は傷一つ負わず、古い木造のアパートも壁にヒビが入っただけだった。

二十年以上が経ち、あの時埃と瓦礫にまみれていた街に、マンションを買って住んでいる。夏には蝉がうるさいほど泣き、秋は落ち葉で歩道が埋まり、冬は海の上に雪が降り、春は桜で薄紅に染まる。

人生とはつまり選択の連続で、私は成人する前に実家を出るという選択をした。それは物心つく前からの目標で、自分で髪を洗えたり自分でリンゴの皮を剥けるようになるのと同じ次元の目標だった。

そこからはもう毎日毎日選択しているようなもので、今日の夕飯は豚モモ肉の炒め物にするか鶏肉のソテーにするかそれとも近所のお肉屋のレバーのマリネにするかというのが面白くて仕方なかった。今でもそうだ。料理はすればするほど腕が確実に上がるし目利きになれるので本当に楽しい。掃除も能率的にこなせば楽しいし、気持ちがいい。もちろん洗濯も好きだ。ベランダで洗濯物がどんどん乾いて行くのを見るとちょっと興奮する。

なぜそれがそんなに楽しいのか。

それは、自分のためだからだ。

自分の食べる、着る、寝るを快適にするための選択だからだ。自分が快適に生きて行くための選択だから、楽しいのだ。

大学入試に失敗してやむなく地方公務員になって、最初はグダグダ言っていたけど街で飲み歩くのが楽しくなり、けど仕事はつまらないので5年で辞め、実家は出ていたので自炊を楽しみ、ぼちぼち高卒も飽きたので大学に行き、ぶらぶらしていたら近所の工場で面白い仕事があり、そろそろ飽きてきたらまた近所の外資系の会社で募集があって事務の派遣になり、いろんな会社に行きながらなんのかんので働いている。

それもこれも、自分のために選択したからだ。自分が楽しいか、面白いか、その度に決めてきたからだ。

誰かのために生きる、というのが好きではない。亡くなった人の分も生きなさいというのも。高校に入ってすぐ、中学の同級生が踏切の事故で亡くなった。大嫌いだった国語の教師が葬儀の席で言ったものだ。「あの子の分まで生きなさい」

誰かの代わりに生きることはできない。それが人生だ。その人の人生はその人にしか生きることができない。だからこそかけがえがないと言えるのだし、大事にしろとも言えるのだ。

だから私は、他の人の分まで生きようとは決して思わない。たとえ誰かにそれを望まれたとしても、私は私のために生きる。私にとって、それこそが人生だからだ。

だから、誰かに期待されているからとかみんながそうしているからという理由でいろんな選択を人任せにする人がいても、それはそれでその人の人生なんだと思う。もしかしたらそれが一番その人にとって良い選択だったかもしれないし、逆かもしれない。そんなことは誰にも分からない。

選択するのが苦手なら、決断するのが苦手なら、とりあえずできそうな選択からしてみるのもいいかも知れない。それでうまく行ったら儲けものだ。それも無理ならとりあえず一切の選択をせず、ひたすら忠実に目の前の勉強や仕事に集中するのもいいかも知れない。もしかしたら、美味しい選択肢が降ってくる、かも知れないし。

 

 

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その19

 ビルの前に赤城さんとスーツの女の人が立っていた。赤城さん、スーツそれ、上下が合ってないんじゃあ。
「今日は大変大事なお話があるんですう」
名刺を見せながら女の人が言う。はーん、役人ね。
「あ、あの行政法人ってありますけど、私天下りじゃないんですう。実は私も派遣なんですう」
 ついにスキミングで摘発、か。
「実は、今日でこのお仕事終了ということになってしまって、申し訳ありません」
 んなわけないよな。いくらなんでも新聞に出るわな。
「皆さんがされてたお仕事って、職場の環境をリサーチするためのものだったんですう。なので、本当だったら男女6人でえーと、二十代三十代四十代って、集めるはずだったんですけど」
 6人も。あんな狭いところに。
「本当はもっとたくさんで4階と7階に分かれてもらうはずだったんですけど、結局3人だけということになってしまって」
 実験になりません、ってことね。
「えと、というより、こういうことって、まずいらしいんですね。つまり、モニターさんしてもらう相手には、モニター内容の安全性とかをきちんと説明する義務があるみたいなんですう」
 さっきから赤城さんは一言も喋らないで、女の人に合わせてぺこぺこしてるだけ。この人はどのくらい知らされてたんだろう。
「それから、こちらの赤城がお渡ししていたIDなんですけど、実はこれもモニターの一環でして、改札を通過すると時刻や駅名が入っていくはず、だったんですけれど、なんかうまく作動しなくて」
 はーん、それで武田さんが一回反応したって言ってたんだね。
「それも、使用目的を明らかにせずに携帯させる、っていうのもまずいらしいんですよう」
 うまく作動しないから毎週違うのを渡されてたのか。
 まあ、スキミングは外れてたけど、そんなに遠くはなかったか。
「こちらのミスということで、九月分はすべてお支払いいたします。契約は今日までで完了ということなので、次のお仕事を探されてもいっこうに構いません」
「あ、あの」
 赤城さんがやっと口を開いた。
「あの、私どもも誠に申し訳ないということで、こちら少額なんですけれどもお納めください」
 プリペイドカード。うーん、地下鉄のは使わないけど。それに、そのままポケットに入れてたから湿ってるけど。あんまり湿ってると誤動作するんだよ。
 あっ、もしかしてID、赤城さんの湿りが原因?
「私物とか事務所に置いてらっしゃいますう?」「はい、少し」「では、ちょっとお時間差し上げますので、取ってきていただけますう?」
 お時間差し上げ、ってこの場合正しいのかな、と思いつつ4階に上がる。
 パーテーションが外されている。机がむき出しで、PCも椅子も、あのサーバーもない。蒼井君のポットと、俺のサボテンと服のフックだけがある。
 いろんなとこで仕事してきたけど、こういう終わり方は初めてだ。
 サボテンは持ってきた時の袋も置いてあるので入れるだけ。
 蒼井君のポットの下と、武田さんのハーブティの上にメルアドを書いたメモを置いて、ふと思った。
 オレ達はたぶん、一日に一人ずつ、別々に呼び出されるんだろう。事務所に勝手に上がらないように、赤城さん達が待ち構えている。
 だから、オレのメモは処分されるんだろう。最初にあったパーテーションが外されていることには気づかない癖に。
 そういうことだけには気が回りそうだ。だからこそ、オレ達を遠くから呼び寄せたんだろう。
 それでも多分オレ達は、また出会うことになるだろう。
 だって、派遣の世界は狭い。仕事が多い場所も限られている。派遣会社だって無数にあるわけじゃない。
 もうすぐ夏休みが終わる。まばらだけれど足早な人波にちょっとだけ逆らって、振り返りながら歩いてみた。

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その18

「ねー、あんた赤はいないっていったじゃん」
 赤城さんが家に電話してきたので、姉ちゃんが虐める。
「あかぎだけど、赤じゃないよ」「え、赤に城でしょ、普通」「なんか、アジアの亜に可能の可とか、そんなだよ。珍しいんだって」「へー」
 赤城で正解だけど、赤じゃない。
 ビルの停電で月曜は休んでくれとのことだった。工事かな。まあ、時給は出るらしいし、ちょっと朝寝してベースの練習してたら陽が暮れた。
 カセットはカセットテープのことで、ヨン様がピアノ録音して好きな人に送ってたやつでしょ、って武田さんに確認しよう。
 ビルの前に、赤城さんとスーツの男の人が立っていた。すっごい背が高い。赤城さんて、スーツ着ることもあるんだな。膝が抜けそう。新しいの、ないのかな。今はスーツも安くなってるのに。
「少しお話ししたいことがあって」
スーツの男の人に反応して、赤城さんがぺこぺこする。こういうオモチャ、あったよな。
「このお仕事ですが、今日で終了ということになります」
 えっ、という俺の声が一階に響く。
「誠に申し訳ない」
 スーツの人は役人、いや、官僚、いや違うわ、独立行政法人だから、えーと、天下りの人らしい。
「みなさんのお仕事には、実は別の側面、つまり意味がありまして、年代の違う男女が、どのように職場で協調していけるのかという、いわば実験のような側面もありました」
 ふーん。
「しかしですね、この実験の被験者である皆さんに、実験の目的を全く知らせずにいるというのが、なんといいますか、法律的におかしいということで」
 でも、実験だって知らせたら実験じゃないような気も。
「それに、本当ならば6人が参加する予定だったんですね」
 赤城さんて、何に頷いてるんだろう。どこまで知ってたのかな。
「二十代、三十代、四十代以上の高齢者の男女で、ということだったんですが、どうしても人が足らなくて見切り発車のようなことになってしまって」
 高齢者って、男臭いより失礼じゃないか。
 じゃあやっぱり、仕事には意味はなかったの?
「いえ、仕事の方は、皆様のスキルに応じて対応させていただいておりました」
 赤城さん、なんでそこで大きく頷くの。
「また、この赤城がお渡ししておりましたIDですが」
 うわ、呼び捨てなんだ。
「実は、どの改札を通っても通過した時刻が記録されるIDとして試作したものだったのですが、正常に作動しませんでした」
 うわ、踏んづけなくてよかった。
「こちらのほうも、用途を明確にせずにお渡ししたことが好ましくない、ということでした。ですが、情報等は全て削除させていただきますので、ご安心ください」
 ふーん。つまり、成果が出なくて首にされちゃった、ってこと?
「いえ、その、今回は、と言いますか、派遣会社は関係ございません」
 関係ないってどう関係ないの。
「すべてこちらの手違いということで、九月分の時給については全額支払いさせていただきます。もちろん今日からお仕事を探されても構いません」
 この説明もスーツの人がするのってどうかな、と思っていたら、赤城さんが
「あ、あのっ、私からお渡しするものがあります」
 懐から何か出してくる。
「ほんの気持ちになるんですが、どうかお使いください」
 プリペイドカードだった。うっ、ちょっと湿ってる。これって登録した時にもらえるやつの余りかな。
「事務所に何か私物はありますか」ポット。コーヒーもあるよ。
「では、私どもはここでお待ちしておりますので」
 本当に6人集まってたら六角形になって蜂だったなあ、と思いながら4階に上がる。
 パーテーションがない。机がむき出しになってる。俺のポットがぽつん、とある。白川さんのサボテンがない。武田さんは、失礼しまーす、引き出しの中にハーブティの箱だけ。ということは、白川さんはもう来ないんだ。
 嘘ついたんだな、赤城さん。
 いや、つかされたんだ。でもたぶん、嘘だってことも分かってないんだろうな。
 もう来ないだろう白川さんの机の引き出しにメモを入れた。よかったらメールください。
 武田さんのハーブティの上にも。ちゃんと打ち上げもしてないし。

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その17

家電に赤城さんから電話が掛かってきて、なんかむっとした。でもぐっとこらえた。
 ビルの電気系統が故障したので、2日休んでくれないか、ということだった。日曜の夜なのに大変ですね、と電話を切る。大人になったなあ、私も。
 2日分の時給は出るらしい。なんか変だな、と思ったけど、電話を掛け直す気にはなれなかった。月曜は朝寝して洗濯したら終わっていったので、火曜は髪を切って本屋に行ってTシャツ買ってきた。
 水曜。ビルの前に赤城さんと、スーツの男が立っていた。今どきあり得ない黒ぶち眼鏡。赤城さんもスーツだ。可哀想なくらい似合わない。スーツの男が名刺を差し出す。
 独立行政法人・労働環境問題分析監視会議・分室 労働環境問題分析協議会秘書室・次長 なんとか某。厚労省系ね。
 こんなところではなんですから、と一階に座らされる。
「実は、おわびしなければならないことがあって」
 スーツが何か言う度に赤城さんがぺこぺこして、うっとおしい。
「このお仕事、事情があって今日で終了ということになります」
 あんまり驚かなかった。
「率直に申し上げますが、今回のお仕事には労働環境の適正化をはかろうという目的のために、生別や年齢層の違う方々がどのように人間関係を形成していくか見ていく、という、いわば実験のようなところがありまして」ははーん。
「特に、IT関連業務に携わる方の中には、こう申し上げては大変失礼なんですが、他の方とコミュニケーションを取るのが苦手な方が多くて」はいはい。
「当初の予定では、二十代、三十代、失礼ですが四十代以上の男女6人でスタート、ということだったんですが、なにぷんにも女性はパソコンが苦手な方が多く、四十代以上の男性もそうでして」んなことないだろうよ。
「結局、見切り発車のようなことになってしまい、しかも大変失礼ですが被験者である武田さんには、これが実験であるということを知らせていない、ということが非常に問題となりまして、このようなことになりました。申し訳ございませんでした」
 ふーん。んじゃ、やっぱり仕事そのものにはあんまり意味はなかったんだ。
「いえ、そのようなことはありません。実務の中でみなさんがどのように人間関係を作っていかれるか、ということを主眼としておりましたので」
 いやだから、その主眼とやらがポシャったってことは、と言おうとしてやめる。多分、霞ヶ関かどっかの誰かの気分が変わったかなんかで監査が入ったってところだろうな。珍しいことじゃない。出社したその日に社長が交代して、テレビカメラ肩に担いだ連中がわんさかいた、よりずっと普通だ。
「こちらの赤城がお渡ししておりましたIDですが、実はあのIDで皆さんの出退勤も管理させていただいておったんですが、それも実は問題となりまして」
 そりゃそうだろう。用途のはっきりしないものを渡したわけだから。
「いえ、実はそちらのシステムは、駅の改札と連動しておりまして、鞄から出し入れしなくても反応するようになっている、はずでした」
 はずでした。
「そのはずでしたが、全て正常に作動せず、こちらの方のデータは全く取れておりませんので、御安心ください」
 御安心。思わず笑ってしまった。
「あの、お怒りはごもっともです。心ならずもこのような状況となってしまい、私どもと致しましても不徳の致すところと深く反省しており」
 うんぬん。
 それにしても、赤城さんてこの程度のことも説明できないんだな。その方がよっぽど不徳なんでないの。
「つきましては、九月分の時給はすべて出勤なさったものとして、満額お支払いさせていただきます。もちろん、明日からすぐにでもお仕事を探されてもいっこうに構いません」
 この説明くらいしなきゃ、赤城さん。
「あっ、あの」
 赤城さんが懐から何か取り出した。
「私どもといたしましても、誠に申し訳なく、お詫びの気持ちとして小額ではございますがこちらをお納めいただけましたら」
 交通局のプリペイドカードとコンビニのプリペイドカード。うう、どっちもあんまり使わないけど。あ、チケットショップで売ればいいのか。
「あの、あのお二人とは連絡を取り合ったりしてはいないですね?」「あのお二人とは」「白川さんと蒼井さんですけど、お名前はご存じですよね」
 ふん。主眼、とやらがポシャったのなら、こっちには何の義理もない。
「はい。あまり接触しないように、とのことでしたから」
 スーツが赤城さんを睨みつけた。
「いいいいいえ、あのあのあの、そそ、それはそういうことではなくて、あの、仕事での接触というか、それぞれの仕事はそれぞれで、という意味だったんですが」「はあ、そうですか。出勤時間もまちまちでしたし、特に話すこともありませんでしたからね」
 スーツが、あー、やっぱりなー、という顔をした。
 製造業の派遣が大勢切られて、本格的に派遣の男子があぶれ出した。
 男子ならパソコンできるはず、という厚労省かどっかの思い込みだろう、一般派遣に若い男子がどんどん入り込んできている。
 入り込んできた、はいいが、可哀想に、ろくにOJTもしてもらえなくて即契約終了、っていうケースが多発しているらしい。
 んで、それは前任の中年以上の女の派遣が意地悪だからだ、っていう流れになってきている、らしい。
 まあ確かにさ、意地悪なやつ多いけどさ。特に四十過ぎても派遣してる女には、魔女みたいのがいっぱいいる。でも、魔女にもいいのと悪いのがいて、とびきりに頭がよくて教えるのも巧くて、なんで社員でないのか分からないくらい優秀なのも一杯いるよ。
 事務の経験があまりない若い男子に、基礎もないままいきなりOA事務させようっていうのが乱暴なのさ。
 そういうミスマッチ起こしてるの、コーディネーターたる派遣会社さんだよね、赤城さん。
「ところで、事務所に私物は置いておられましたか?」
 金曜にあらかたコップやらハンカチやらは持って帰るけど。
「たぶんあると思いますけど」「私どもこちらでお待ちしておりますので、取ってきていただけますか」
 あのなあ、そういうことは来る前に言ってくれよ、大きいもんだったら持って帰れないだろうが、と言いたいところだったが、エコファシズムの犠牲者なので折り畳みの買い物袋を持っていた。
 つまりビルの電気系統の故障うんぬんっていうのは嘘だったわけで、へー、派遣会社ってそんな嘘つくんだねー、そう思いながら四階に上がる。
 なんか、妙に明るい。パーテーションが全部なくなっている。いや、外されているだけだ。
 机が三つ、並び方はもとのままで、でも白いソファーや、一階から持ってきた椅子やテーブルはなくなっていた。PCもない。なぜだか、机の椅子もない。
 自分の引き出しを開けてみる。ハーブティの箱が、ころんと転がっている。
 そうだ。蒼井君の電気ポットもない。白川君のフックも、サボテンの鉢植えもない。
 一瞬躊躇して、でも、白川君の引き出しを開けた。何もない。ペン一本ない。
 蒼井君も。マジック一本ない。
 そうか、そういうことか。
 もう、二人ともいないんだ。二人とも、プリペイドカードもらって、辞めたんだ。
 ハーブティの箱を鞄に放り込うとして、けれど猛烈に腹が立って、だから一つだけ残っていたハイビスカスのティーバックを破って赤紫の花を取り出して、部屋の窓に向かって投げつけた。

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その16 幼な蜂の安寧

 しょうこうぐち。そうそう。学校の下駄箱んとこ。昇降口っていうんだよね。
 一面ガラスブロックだったよな。そうだ。みんなが靴の底立て掛けて喋ったりするから、一番下はいつも泥だらけだったんだよ。そうだ。
 俺は高卒ってことになってる。でも、自分では中退って思ってる。高三の1月から登校拒否になったからだ。
 高三の1月以降っていうのは普通は自主登校になる。人によっては2月から研修に行ったり、予備校の合宿で県外に出てしまったりする。俺は1月は半日補習授業に出てあとは自主学習、って予定だったのに、家から一歩も出られなくなった。
 焦ったよ実際。もちろん家族は心配するし、先生もクラスの友達も、サッカー部の先輩まで来たもん。最初のうちは、いやあなんかもう風邪こじらせちゃって、すみません、とか言ってたけど、もちろん、そうじゃなかった。
 勉強が手につかないわけじゃなかった。ただ家から出られないだけ。とにかく出られない。近所のコンビニくらいなら行けたっていいのに、出られない。
 自分でもいい加減嫌になって「俺は外に出るんじゃなくてちょっと風に当るだけだよーん」って声に出しながら玄関を開けて、そしたら足がすくむ。
 足がすくむ、なんて、テレビとか漫画とかでしか聞いたことなかった。敵に負われて高い崖の上に追い詰められて、そこしか逃げるところがないけど足がすくむ、みたいな。
 足がすくむ以外に言い方ないのかって思ってたけど、本当にそうだ。膝がまっすぐになって固まる。足の裏が地面に貼付いたみたいになる。すぐに全身が固まる。
 あんまりなので、父ちゃんに抱きかかえて無理矢理外に出してくれって頼んだ。高三にもなった父ちゃんに抱かれるなんて普段ならあり得ないけど、んなこと言ってる場合ではなかった。
 で、自分から頼んでおいて、俺は父ちゃんの腕から飛び上がって逃げ出して、そのまま家に戻ってしまった。
 怖い、っていうのとは違うんだ。俺は鳥がちょっと怖くて、アップになったりしてるときゃーとかなるんだけど、それとは違う。心臓もどきどきしないし、気分も悪くならない。
 ただ、なんか透明な感じ。感情が透明になるみたいな。
 もう学校に通う必要はあんまりなかったけど、問題は受験だった。そりゃアホな私大の経済学部だったけど、受けたかった。なのに2月になっても外に出られなくて、受験できなかった。
 うちの家族は結構楽天的だけど、さすがにへこんだね。
 受験がどうこうっていうより、このまま外に出られなかったらどうするか、ってこと。
 もちろん医者には診てもらったさ。行きつけの内科の先生の紹介で、精神科の先生が家まで来てくれた。精神科っていうからどんな変な先生かと思ったら、体育の先生みたいな人で、どうでもいい質問をたくさんした。
 友達は何人とか、部活は、とか、勉強は、とか彼女は、とか。たぶんセックスのこととか聞きたいんだろうなあと思ったので、彼女は今はいないけど高一の時はいて、だけど何にもないです、っていった。
 週に何回マスるかって、自分から言った方がいいのかと思ったけど、やめた。「何にもないです」って言っただけですごく変な顔したから。俺としても言いやすいことではないし。
 でもさ。そういうのって大事じゃないか。やりたいかやりたくないかって。女子はどうか知らないけど、男子は結構そんなことばっか考えてるぞ。
 あ、俺はまず最初は好きな女子とって思ってるよ。彼女が嫌だったら待つよ。そんくらいの余裕はあるさ。だって男は自分からきっかけ作らなきゃいけないんだからさ。女子みたいに待ってりゃいいじゃないんだ。失敗か成功かは男の見極めにかかってるんだ。
 あれ、何の話だっけ。そうそう。結局体育、じゃなくて精神科の先生は受験のプレッシャーですねと言ったらしい。まあさ、古典は欠点で、追試でも40点しか取れなかったさ。でも国語はまあまあだったし、数学だけだったらずっとクラスで一番だったもん。
 なので、今年の受験は見送りってことで、2月は終わった。
 3月は二次募集があるから、勉強はずっとしてた。むしろ勉強は集中してできてた。ネットの予備校の模試で、あんまり得意じゃない英語が80点取れた。でもやっぱり、家からは出られなかった。
 卒業式も出られなかった。卒業式の日、クリーニングに出してた制服を家の中で着て、担任やクラス委員や、その他何人かと一緒に写真を撮ってもらった。
 なんか、端午の節句みたいだね。姉ちゃんが言って、泣いた。クラスの友達も泣いてた。サッカー部の先輩も泣いてた。もちろんのことだけども俺も泣いてしまった。受験できなかったことより卒業式に出られなかったことより何より、みんなに心配かけて申し訳なかった。
 俺がずっと家にいるのがなんとなく当たり前になってきて、4月が来た。
 いい天気だな、今日はスリッパでも外に出られる、と思って、外に出た。
 あ。
 外に出た。やばい。出てる。玄関から出てる。
 家に背を向けたまま、俺は叫んだ。母ちゃん母ちゃん、姉ちゃんでもいいや、誰か俺の財布取ってきて。
 母ちゃんはああと言って、俺の部屋に駆け上がり財布をとってきて、俺に投げてくれた。姉ちゃんもわあと言って、ジャージを投げてくれた。
 俺が生まれた時もこんな感じだったのかなあと思いながら、駅まで走った。定期は切れていて、だから切符を買った。高校に行くのに切符買ったことなかったな。料金表を見上げる。久しぶりの外の光は眩しくて、焦点をあわせるのに時間がかかった。
 改札からまた走った。高校は駅から1分という好立地で、っていうより他に何もないんだけど、東口の階段を駆け上がった。そこからもう昇降口の臭いがする。これはみんなの鞄や靴の臭いなんだ。
 緑色の校門の前で、俺は分かった。
 俺は、卒業したくなかったんだ。
 ずっと高校生でいたかったんだ。
 勉強あんまりできなかったし、学校は古くてあんまりきれいじゃないし、隣街の女子高の美人にふられたりもしたけど、でも、ずっとここにいたかったんだ。
 ああもう。なんてもう。格好悪い。
 入学式の日でなくてよかった。こんな突っ立って泣いてるの見られたら、もっと格好悪いもん。
 でもな。一年浪人して受験したのに結局落ちちゃった、って、こっちも相当格好悪いかも。

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その15 雄蜂の達観

 実家のトイレのドアが開かなくなったら直してくれって留守電に入ってた。
 電話をかけると、開かないというよりちゃんと閉じなくなってるみたいだった。水周りを建て増しした業者がいい加減だったらしくて、ドアの蝶番が合ってないらしい。
 同じ業者に来てもらえと言いそうになってやめた。来週の休みにホームセンターによって材料でも見繕っていくか。
 これでも長男なので、電球を付け替えるとかコードの配線をするとかくらいのことはしていた。
 でも、瓦を葺き替えるのは父の役目だった。
 昔瓦屋でアルバイトをしてたとかで、楽しそうに屋根に登ってた。落下防止のロープまでつけて、ごりごり屋根を歩く。瓦はほとんどの場合割れてなかったけど、ちょっとでもひびが入ってると大喜びした。本末転倒です。
 でも、玄関のガラスブロックは直せなかった。
 ここのみたいに透明じゃなくて、うっすら黄味がかかっていて、夕方なんかきらきらしてレモン味のサイダーみたいできれいで、上半分の和風の土壁とは全く合わなかったけど、オレは好きだった。
 そのガラスブロックにどういうわけかひびが入って、ごろんと落ちて割れて砕けていた。オレは次の日から修学旅行で、帰ってきたらガラスブロックは全部なくなって、周りと同じ濃い緑の土壁になっていた。
 好きだったのに。ガラスブロック。同じのが手に入らなかったのかな。
 けど、少しして気がついた。オレがガラスブロックを好きかどうかなんて、誰も考えてなかった。オレは両親にとって家の修理を相談するべき相手じゃなかったんだ。
 オレは、あの家の持ち主じゃない。それは父親で、決定権は父親にあって、面倒なガラスブロックより壁一枚にしたほうがいいよね、という話はオレが観光地巡りのバスに酔ってへろへろになっているうちに決まってしまったのだ。
 まあいいさ。どうせ、オレはあの街が好きじゃない。
 実家のある街、新幹線の駅があるのだけが自慢のあの、大きくも小さくもない、住宅ばかりで見栄えのしない、駅前の蕎屋も寿司屋も喫茶店のコーヒーさえ不味くてやる気がなくて、大工まで手抜きする。犯罪が多いわけじゃないけど居心地の悪いイライラする街だ。
 母親はあそこが好きみたいで、妹も結婚して近所に住んでいる。あんたは結婚したらこの家に住めばいいからね。母親は帰るたびにそう言う。母さんはすぐにいなくなるから、遠慮しなくていいからね。オレは返事しない。
 あそこは、オレの家じゃない。オレのものじゃない。オレが建てた家じゃないし、オレの土地でもない。
 建て増しし過ぎていぴつになって陽当たりの悪いあんな家、死んでもいらない。
 オレは、自分の家は一生持てないかも知れない。でも、いい。それならそれでオレの人生だ。
 父親みたいに、自分の両親に家の頭金を半分出してもらって、それをずっと恩に着せられて、酔っぱらうたびに「この家は半分爺ちゃんのだからな、おまえらは住まわせてもらってるんだからな」と言い続けて息子に嫌われるくらいなら、一生借家でいい。
 月6万のシャワーしかないワンルームでも、徒歩五分に図書館となんでも揃う商店街がある。仕事帰りにオレンジ1個とパプリカ1個買って夕飯にする。電子レンジがあればイタリア料理だって作れる。
 ここで静かに、多分一人で、年取っていく。

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その14 女王蜂の憂鬱

 何のために働くか。今はピルのためだと言っとこう。
 9ヶ月前に生理が止まって、友達に話したらさっさと病院に行けって怒られた。深刻な病気のことがある、すぐ行け今行けなんだったら病院紹介するまで言われたので、あわてて駅前のクリニックに行った。
 男性ホルモンが過剰になってそれで生理が止まってるらしく「はあ、ホルモンがオッサン並みなんですね」と笑ったら、でっかいマスクした医者に「真面目な話なんですよ、もう赤ちゃん産めないって泣く人もいるんですよ」と説教された。
 赤ちゃんて、もう再来年には五十だし、結婚もしてないんですけどねー、と言おうとしてやめた。尻に1発注射打ってもらって、生理待ちってことになった。始まったらピル開始、4週間分三千円なり。
 医者はうっとおしかったけど、病院に行ったのはよかった。深刻なものではないみたいだし、低ホルモン投与は癌のリスクも押さえられるんだという。
 んなことを考えつつ、北の政所にいるわけだ。蜂の巣の中で、女王蜂は北にいるのかなあ? で、なんで「まんどころ」って読むんだ? 女がいるところだからか?
 てなことを昼間からつらつら頭に浮かべているのは、ガラスブロックのせいだ。
 その昔、ほんとに昔、まだ20代だったころ、ガラスブロックのあるところに住んでた男とつきあってたことがある。エレベーターホールにガラスブロックがあって、玄関のポーチの所もちょっとガラスプロックになってて、それが好きだった。
 男の顔はもう思い出せないけど、ガラスブロックみたいに綺麗な歯をしてたことだけはよく覚えている。
 ガラスブロックが好きだったんだか男が好きだったんだかもよく思い出せない。ただなんだかんだで三年くらいつきあって、なのに男がトイレから出て来てちゃんと手を洗わないのに気づいて、嫌になって、びしっと縁を切ったんだった。
 いや、違うな。手を洗わないのなんて問題じゃないな。
 他にもなんかあったんだよな。いろいろ思い出せないけど。けど、指摘できなかった。トイレから出てきたら手くらい洗おうよ、くらいのことさえ言えなかったからだ。
 そんなで長いことつきあって、それこそ結婚なんかしてやっていけるわけがない、って思った。嫌われるのが怖くて黙ってるのなんて続くわけないって思ったんだ。
 神経質で、手を洗わないとか爪が汚れてるとか洗濯物の畳み方がいい加減とかものすごく気になるくせに、そしてそれを上手にたしなめたり直してやったりできないくせに、相手がそれに自分で気づいてくれるまで待ってるっていう手前勝手な性格だって、自分で気づいてしまったからだ。
 つまりは独り相撲だったわけだね。30代後半で子供だけでもいた方がいいかと思ったことも、ないわけじゃない。実家にはまあまあ資産があってマンションとかも貸したりしているから、万一私生児産んでもマンションの管理人とかでやっていけるさとか思っていた。
 でも、そういう下心ありありの時というのはガラスブロックには縁がないというのが世の常なわけだ。
 そういやあ、最近近所の子供を可愛いなって思ったりしたんだっけ。欲しいとは思わないけど。
 え、んだから生理止まったのか? なんだそりゃ。

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